今日のわたし
ぺろぺろとタララランラで元気になるんだ

 私は27歳で息子を生みました。1967年のことでした。
 私は当時男性週刊誌の表紙の絵の仕事をしていましたから、育児に専念できませんでした。育児の時間がなかったわけではありません。紙の上に絵を描くのは1日もあればできたのです。7日のうち1日だけ仕事をすればよいなら十分育児の時間はあります。でも1日というのは作業にかかる時間のこと。
 男性週刊誌の表紙の絵を描くということは、気持ちも頭もそのことに向けていなければできないのです。はっきりいえば育児感覚ではその仕事はできないのです。
 だから私は育児のほとんどを母に任せていました。といって私に母性愛の感情がなかったわけではありません。自分の息子という認識は当然ですけどありました。息子はとても愛らしかった。いつもいっしょにいたい。ミルクをあげて、おむつを替えて、話し相手になって、抱いて、寝かして。普通に育てたいと思う気持ちはありました。
 けれど私の中にもうひとつの意識が強力にあったのです。母にも夫にも手伝ってもらえないこと。他のだれにも代わりになってもらえないこと。絵です。私にしか描けない絵です。よい絵を描かねばならないという意識。
 じゃあ何故子供を生んだのか。どうして避妊しなかったのか。
 実はそこのところはお気楽だったのです。子供はいらないと思ったことは一度もありませんでした。むしろ子供は生みたいと思っていました。生んだあとのこと、子育てや仕事のことを深く考えていなかっただけでした。
 生まれた息子は小児喘息でした。夫の姉と弟が喘息でしたから由緒正しい喘息体質というわけです。このことは母任せにできませんからずいぶん長い間治療に通いました。それでも私は夜遊びをしていました。よい絵を描くために。
 帰宅すると息子はベッドの上に座ってヒーヒー泣いていたことが度々ありました。母も夫も何故か手を尽くしてくれていませんでした。だから夜中に世田谷から新橋の病院までタクシーをとばしたことが何度もありました。今こうやって考えてみると変な家族だったのです。 
 1971年の夏に週刊誌の表紙の絵の仕事からおりることを決めました。育児のためではありません。雑誌の方向が変わったからでした。1971年12月いっぱいでやめました。
 私の描く絵は時代の風俗でした。1972年はニューファミリーとして若い家族をダーゲットにした商品展開がされ始めました。私の絵に子供がまざります。ちょうど自分の生活を絵にすればよかったのでした。
 「生活の絵本」というニューファミリー雑誌の表紙もさせてもらうことになりました。男性週刊誌の絵の時のような緊張感はありませんでしたが、仕事は家事や育児のついでにするというわけにはいきません。外に仕事場を借りて通いました。だから自分の生活を描けばよいという仕事になっても、家事と育児のほとんどを母に任せていました。でも息子のことをいいかげんに思っていたわけではありません。いつも頭の中にありました。仕事と息子が私の中で終始もつれ、葛藤していました。
 息子が小学2年から5年までの3年間、仕事場に住まいを移したことがありました。その方法は結果として私も息子も心身の疲労に終わりました。
 中学に入って友達の家でお酒を飲み、それが学校に知れて問題になり、その後息子は少々むつかしい方向にずれていきます。この時点で私は、今までの私の母としてのあり方が間違っていたように思ってしまうのです。私が仕事をしていなければ彼はまっすぐに育っていたんじゃないかと。だからその時点でできることをしようと考えて自宅に仕事場をつくりました。けれど息子のひとつの時代は始まっていたのでした。行きたいほうに向いてしまっていました。仕事を大事と思ってやってきた私は間違っていたのか? 息子に重い荷物を担がせることになったのか?
 幻冬舎から『おしゃれにうつつ』という本を出してもらいましたが、その中に今まで描いてきた絵をはさみました。あらためて見ると、すばらしい仕事に恵まれていたと思いました。私の人生に仕事はないことにはなっていなかったと思う。そして息子の人生もこれでしかなかったと思うのです。
 息子は30を超えました。もちろん私の子育てはとっくに終わっています。私は60代。実感はまだありませんが人生の終端期です。息子のことと仕事のことがなによりも大事と思ってやっていたら、私は年をとっていたのです。少し腰を下ろしてこれからのことを考えたいと思います。ああ遠くに来てしまった。いつの間にこんなに遠くに来てしまったんだろう。なんだか人ごとのような今です。

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